あれから10年

東日本大震災から今日で10年となりました。

あの日、私は4月開始予定の新番組取材の為、日本におらず、中国・上海にいました。

日本での大きな地震は現地でも報道され、またデマのようなニュースも微博で流れ、現地の新聞は日本の新聞が決して載せない写真が多く掲載されていて衝撃を受けました。

日本の新潟をはじめ東日本は電話が輻輳していることを推測し、関西の実家に電話して、どんな状況なのかを確認した記憶があります。

その4年後の5月、女川を訪れました。

当時、被災地の中でも復旧作業が進んでいる地域でした。

女川駅がちょうどオープンし、この駅の中には温泉施設があり、多くの方が疲れを癒しにいらしていました。

一方、商店街は仮設のお店での営業。みんな力を合わせて毎日を送っているんだなと感じました。

現地では人気のお土産となっていたスペインタイル屋さんで買ったマグネットは、今でもうちの冷蔵庫に貼りついています。駅前の「シーパルピア女川」に移転してオープンしているそうです。

女川は「職住分離」の復興まちづくりを行いました。山に囲まれた低地にあった中心部の住宅地が津波で壊滅したため、山を切り崩した高台に住宅地を造成し、その土砂を使って低地を嵩上げし、店舗や事業所、工場などを集積させました。それがテナント型にした「シーパルピア女川」。

私が行ったときは、ようやく建物が出来上がり、近々引っ越し作業を行う、というところでした。

夕飯に立ち寄った居酒屋さんの女将さんももうすぐあっちに行くのよ!と嬉しそうに話してくれました。座ったカウンターの隣には、ちょうど役場の方がいらしていて当時の話をしてくれたのを今でも覚えています。当時は森の中に着の身着のまま逃げ込み、1週間、流れ着いたさんまだけを焼いて食べていたら、やせたし、便通もよくなった、とか、(笑い話にしてしまうところがすごいです)、直後は自分たちしか生き残ってないと本当に思っていた、とか、電柱で一晩過ごした、とか。そして、語り継ぐことが大事 とも。

↑2015年5月当時の看板。後ろには倒れた交番の建物がありました。

敢えて、被害の大きい場所などの写真をアップしませんでしたが、この女川交番のように震災遺構として様々なものが残されています。今日は防災について考えることが多いと思いますが、実際に目にした方が自然の力などが本当に身にしみてわかる気がします。

でも想像力を膨らまして、本当に 自分の、家族の命を守るには何をしておくべきか、考える日にしないとです。

(当時のブログ〈2015年5月〉にも当時のことを掲載しています。ただ衝撃的な写真もあるかもしれません。見たくない方は気をつけてください<m(__)m>)